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特徴ある白の色使いと温もりのある明るい画面で、地中海の島々やまちの日常風景を描き続ける。

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画家・村上 選の描く風景/MurakamiErabu


画家・村上 選の描く風景/MurakamiErabu

作家・高橋玄洋の『村上選』高評


洋画家・村上選の個展があるとき、そのパンフレットには所沢在住の作家・高橋玄洋の画家・村上選への高評が毎回寄せられている。ここでは2019年1月の「画家・村上選高評」をご紹介する。(はじめに、登場する方々のお名前の敬称を敢えて削除する失礼をお詫びする。)

『選さんの白』

村上選さんとは歳は違うが親友である。
二人でヨーロッパを旅した時には随分お世話になった。
二人には小林和作、中川一政という共通の師が存在し、
この師匠を反射板としてお互いの理解を深めて行った経験がある。
選さんの作品の特徴はなんといってもホワイトの活用だろう。彼の白は色を薄める白ではなく色をムチ打つ白なのだ。
その白には味があり瀬戸内特有の温もりを含んでいる。
今机の前に大山の雪景がかかっているのだが、冬の大山も彼の手に掛かると雪の温もりとして四六時観る者の冷えた心を温めてくれるから不思議である。
若い友と思ってきたが山野を駆け廻る風景画家としてはここ十年が勝負であろう。
さらなる大成を待ちたいものである。
作家 高橋玄洋


画家・村上 選(Murakami Erabu)の略歴


1944年 広島県尾道市向島町に生まれる。
1982年 一水会展 佳作賞受賞
1985年 小林和作美術振興奨励賞受賞
1986年 一水会展 安井奨励賞受賞
1987年 日展入選(25回)
1988年 安井賞展入選(2回入選)
1988年 個展(広島福屋 以後9回)
1992年 個展(天満屋福山店 以後10回)
1995年 個展(福山しぶや美術館)
1996年 二人展(尾道市立美術館)
1996年 個展(日本橋三越本店 以後8回)
2000年 一水会展 石井柏亭奨励賞受賞
 2000年 個展(阪急百貨店うめだ本店 以後4回)
2002年 二人展(尾道なかた美術館)
2004年 一水会展佳作賞受賞
2005年 個展(尾道なかた美術館)
2007年 一水会展佳作賞受賞
2008年 一水会展第70回記念賞受賞
2012年 個展(JR大阪三越伊勢丹)
2016年 一水会展会員努力賞受賞
2016年 尾道ロータリークラブ・プレゼント賞受賞br />2021年 個展(福山しぶや美術館)
2021年 個展(日本橋三越本店)
現 在 一水会常任委員、日展会友

画家・村上 選の描く日常風景


画家・村上 選の描く風景/MurakamiErabu
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出会いの連鎖ー小林和作


作家・高橋玄洋と洋画家・村上選のお二人に共通する師は、尾道市名誉市民である画家・小林和作(1888-1974)と洋画家・美術家・歌人・随筆家そして書家の中川一政 (1893-1991)である。小林和作については、高橋玄洋著「評伝 小林和作-花を見るかな」(1985年/創樹社)をご覧いただければ、その人間的魅力が十分お判りいただけるだろう。
小林和作は山口県吉敷郡秋穂村の裕福な大船問屋に生まれたが、病弱で過度の吃音症というハンディキャッップがあった。それを乗り越え、父・和市の反対を押し切り、日本画という条件で画家をめざし、京都市立美術工芸学校、京都絵画専門学校へと進む。このなかには村上華岳、入江波光、土田麦僊、小野竹喬など後世に名を残す日本画家たちがいた。このとき父・和市が他界したため、小林和作は500万円(現代に換算すると数十億円)という巨額の遺産を相続した。その後、小林和作は日本画に飽き足らず、洋画家になることをめざして上京を決意する。
当時は、(大正デモクラシーといわれる)自由主義的な運動、風潮、思潮の機運が高まった大正時代で、武者小路実篤、志賀直哉、中川一政、梅原龍三郎たちが属する「白樺派」が誕生した。和作は、京都で開催中の展覧会で林武の作品に出会い、下見で行った東京で中川一政、梅原龍三郎の若き洋画家の作品に出会い、その魅力に強烈な衝撃を受け、勝手に彼らを自らの洋画家の師と決め込み上京、以降、彼らとの長き交流が始まる。
ところが、アメリカのブラックマンデーに端を発した世界恐慌の影響を受けた昭和恐慌(1930-1931)により、和作の全財産を失うという数奇な運命をたどる。
ここで「評伝・小林和作ー花を見るかな」から、小林和作の大人ぶりを中川一政が語っているエピソードをご紹介しよう。
『和作が破産したとは知らずに、中川は知人のために和作のところへ金を借りに行った。かなりの額である。和作は何も言わず貸してくれた。あとになって、それが破産直後とわかって、中川は心ないことをしたと述懐しているが、和作にはそのように運命をあっさりと受け容れる潔さがあったらしい。未練がましいことはいったことがなかった、と中川は書いている。倒産しても尚、友人たちに「親切の限り」をつくしていたのだろう。』
大富豪であった当時に和作が買い求めていた多くの絵画コレクション(岸田劉生、梅原龍三郎、中川一政、小島善三郎、林武、佐伯祐三、ドランなど70点あまり)が競売に付され、これをもって都落ちし、郷里山口の途中にあった尾道に立ち寄ったことが縁となり、その後の40年という長きにわたる尾道生活が始まり、このまちが終の住処となる。
尾道を拠点に、全国173箇所の自然の風景をスケッチし、揺るぎない構図と際立った色彩感覚で描かれた作品は、昭和28年にいたって和作の画業は頂点に達したという。
小林和作は、自ら多作と自認するほど多くの絵を描き、『梅原龍三郎よりも多額に稼いでいる』といいながら、その稼いだ金は芸術を志す若者たちに精神的な負担にならない方法で、陰ながら支援することを惜しまなかった。和作はお金の価値ある使い方を十分すぎるほど知っていたに違いない。
吾輩は、残念ながら小林和作画伯にお目にかかったことはない。しかし、尾道で小林和作画伯と近い関係にあった人物、高橋玄洋、村上選、手塚弘三のお三方との交流の中で、大人(たいじん)・小林和作を身近に感じ、その人間的な魅力に圧倒され、大きな影響を受けた一人だと勝手に思っている。

出会いの連鎖ー尾道は出会いの装置だ


吾輩が洋画家・村上選と出会ったのは、1988年の春頃だったと思う。当時、吾輩は尾道青年会議所(尾道JC)卒業の年で、担当副理事長として3月13日に新尾道駅開業祝賀事業『<大阪ー尾道>のろしリレー』という新幹線とのろしを競争させるイベントを終えていた。その1、2ケ月後に、広島県知事の号令で県内の各商工会議所において結成されていた「‘95広島は変わる10万人委員会」の尾道企画チームが、尾道JCにある申し入れをしてきた。その内容は、当時、金沢で行われていた食と風土の祭典『フードピア金沢』をモデルとした尾道版・食文化イベント「グルメ・海の印象派ーおのみち」を共同で実施してほしいというものだった。
10万人委員会のメンバーと尾道JCの理事会役員の会合が始まった。吾輩もその数年前から『金沢フードピア』の存在を知っていて、尾道に相応しいイベントでいつか実現したいと心密かに思っていた。ところが、申し出では準備期間が3、4ケ月しかなく、尾道の将来にとって重要なイベントとなる可能性を秘めたものを失敗するわけにはいかず、十分な準備期間がないことを理由に、吾輩だけが強固に反対した。その10万人委員会の企画チームには洋画家・村上選、備前焼作家・佐藤苔助、そして知古の彫刻家高橋秀幸らが居た。
結局、結論は共に協力して実行することとなったが、ここで村上選は吾輩のことを『気骨のある奴』だと強い印象を受けたそうだ。「第1回グルメ・海の印象派ーおのみち」は、10万人委員会企画チームと尾道JCの協力により、今では考えられぬハイレベルな文化イベントとして成功を収めた。
このイベントを通じた出会いから、村上選が吾輩に玄洋先生をご紹介くださり、玄洋先生を慕う人々の集いであった玄洋会とも関わることになる。また高橋玄洋先生の二回の励ましの言葉が、その後の吾輩にとって、歩む道への大きな支えとなった。ひとつ目の言葉は「継続は力だよ」で、吾輩は「グルメ・海の印象派ーおのみち」の食談の企画をすすんで11年間担当し、多くの文化人との出会いを得た。もうひとつの言葉は、「トトロの森を守る運動は所沢では成功したよ」で、吾輩が「尾道の歴史的景観を守る会(以下、守る会)」の成功の可能性を信じ、活動を心底行うことができた。残念ながら、尾道市及び市議会は歴史的地域の都市景観の意義をまったく理解できず、「守る会」の提案をことごとく拒否、そのため人望のある地元優良企業である丸善製薬会長・日暮兵士郎が率いる「守る会」を中心とした民間人だけで高層マンション建設用地を3億5千万円で買収し、その用地に清春白樺美術館の分館としての尾道白樺美術館(後の尾道市立大学美術館)を建設し幕をおろした。
この景観運動で、かつては小林和作画伯の後ろ盾もあったはずと想像する尾道出身で銀座・パリ・ニューヨークに店舗を展開する吉井画廊代表・吉井長三(1930-2019)とも出会った。吉井は、梅原龍三郎、中川一政たち白樺派が計画したが実現できなかった「幻の白樺美術館」建設を申し出て、山梨県の清春に白樺美術館を建設した。
そして吾輩はこの清春白樺美術館で詩人・谷川俊太郎、作曲家でジャズピアニス谷川賢作の親子、早稲田大学教授(数学者)でオルガニスト、そして蕎麦博士で骨董愛好家の高瀬礼文(1931-2007)お三方と出会い、以降尾道に数回にわたり招聘している。

出会いの連鎖ー小林和作と繋がった


1992年、吾輩が「尾道の歴史的景観を守る会」の幹事として、尾道の景観運動を行ったことが契機となり、株式会社ビサン ゼセッションという会社を立ち上げた。ビサンとは吾輩の父が経営していたタクシー会社備三タクシーのビサンであり、ゼセッションとはドイツ語でSECESSIONを日本語で言いやすくした吾輩の造語だ。
吾輩は会社の一番目立つ一階の柱に、画家エゴン・シーレがウィーンを中心とした19世紀末の芸術運動『分離派』のポスターに書いたSECESSIONを厚手の鉄板をくり抜いて掲げていた。この会社で第1回のギャラリー展を行ったのが、村上選展だった。
その画家・村上選が、重そうに分厚い一冊の本を吾輩に手渡された。それは黒表紙に赤の文字でエゴン・シーレのサインが書かれたものだった。「この本は、和作先生が自分にくださった本の一つだ。君が持っている方が良い。」と。初めて、肌感覚で小林和作という大人(たいじん)に接したという瞬間だった。今も吾輩の蔵書棚にズッシリとした存在感をもって立っている。
それにしても、吾輩が名付けた社名ビサン ゼセッション、そのエゴン・シーレの描いた文字『SECESSION』が不思議なほど出会いのパワーを吾輩に与えてくれた。会社を立ちあげた翌年・翌々年には、ウィーンの音楽家たちによるコンサートを2回続けて主催することになり、100万円の赤字を出した。そしてドイツに留学し、ウィーンで山本宣夫と出会った尾道出身の松本精神科医が、帰郷してすぐに尾道でSECESSIONの文字を見たことに驚き、吾輩に会いに来られた。その結果がフォルテピアの修復家・山本宣夫との出会いを導き、山本宣夫から小林道夫、武久源造、上野真へと繋がり、武久源造からチェンバロ製作家・久保田彰、桐山建志、大西律子に、上野真から明比幸生、イリーナ・メジューエワ夫妻へと繋がっている。出会いは驚くほど連鎖していくものだ。
以上、あまりにも長文となり、うんざりしているお方もいるだろう。今まで書いた出会いの連鎖は、一部に過ぎないが、ここらで一応幕を降ろすことにしよう。(2020年11月7日)
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